ハンター紀行 【狩】真 善 美
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自由という定義

2008.10.03 (Fri)
僕は世間のしがらみにとっぷりと浸かり
そのままがんじがらめに拘束されている。


しかしながら僕は完全に自由だ。


be free
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ごらん、世界は美しい

2006.09.15 (Fri)
故 手塚治虫氏の描いた漫画「ブッダ」の背表紙に書かれていた言葉。僕は中学生の頃嵌まって何度も何度も読み返しては生と死について思いを巡らせたものだった。この本との出会いによって宗教という概念への信仰を捨て去りそういった団体への帰属を完全に避けた、それによってただ“生きる道とは”に心を開こうとする態度が醸成されたのかもとおもう。

思い返せば、結局卒業文集の将来の夢は「人類究極の問題“生”を解き明かすフリーのルポライター」となってしまっていた。当時はルポライターというカタカナがかっこよさそうだという安易な気持ちもあったように思うが。

今、僕は世界を混沌とした灰色なフィルターを通して見ているような気がする。希望を、体の隅々から残っているものを何とかかき集め吐き出して食いつないでいるといったところだろうか。裏を返せば「あきらめ」に似た空気が覆いかぶさってくるのを必死に振り払おうとしているのかのように。
が、そこに「美」を意識する余裕はあるのか、
そもそも本当に“美しい”ものなのか?

世で見性した人々は言う。

「世界は巡り、つながり、その総和は美である」、と。

なんとなく認めることはできるし感覚的にも大きく見えるとはそういうことなんだろうなと受け止めやすい。自然は確かに美しい、その中に居るとき心が落ち着く自分が居るのも分かる。だが人間社会との総和で認識することにどうしても美とは一線を画するような違和感をぬぐえない自分が居る。

戦争とか一言でくくるけどその実態は殺人の中にもリンチやレイプ、拷問とかありとあらゆる人間の腐敗臭ただよう醜さや憎悪が行われた総和であることだし、いやそんな究極語らなくても普段の社会生活で平静を装った人々の内心では嫉妬や優越感など渦を巻き様々な姦計で自分の欲望を遂行しようとおぞましい世界が繰り広げられている。

果たしてそれらを全てのつながりの中でどう認識すればそれもまた環の中にある必然と達観するまでに至れるというのか?!

解らない、分からないことが多すぎる。まだ僕は見性の壁際どころかそこに至る長い洞穴のずっと奥に居るようだ。



とりあえず腹が減ってきた時間なので、お昼ごはんを食べたらその後一寸は満腹感と世界の美しさを実感してみようか。。。
( ゚Д゚)y-~~


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ゴルビーの言葉から

2006.08.30 (Wed)
他国の友人にして自国には忠実で献身的な市民 
-雪斎の随想録

  「われわれが自分の国に居るときに信じているのは、
  一人の人間が、他の国々の友人であって、同時に自分
  の国には忠実にして献身的な市民のままでいられると
  いうことである。それが、われわれが貴殿に観ている
  流儀である」。
  
      ―ミハイル・セルゲイヴィッチ・ゴルバチョフ― 


すばらしい言葉を言うものだとつくづく思った。だがこの関係性を維持することの難しさを同時に感じる。結局政治を絡めるとどっちの側なんだと態度を明らかにせざるを経ない場面に必ず出くわすため、友情あるいは国家への忠誠と2者択一でしか示せないからだろう。あいつはあっち(敵)側と通じてるらしいなんて噂だけでも敵扱いの世の中で、中道のバランスを保つことは時に不可能ですらある。でもゴルバチョフのこの言葉が多くの人に知られれば、違う展開を期待できそうだ。

これは大いに一般の中でも活用しうる言葉であり、例えば仕事で交渉が決裂したとしても個人間で友情をはぐくんでいた場合飲み会などで「この前はよくもやってくれたなぁ」、「いやー、まだまだこれからもっと攻めて行くさ(笑)」、「なんだと!、今度はこちらの出番だよ(笑)」と関係性を簡単に繕い、次に進めることが出来るかもしれない。

これが国家プロジェクトである場合はそう簡単にもいかないだろうが、どんなに苦境な関係性が続いていたとしても常に交渉の余地が残っている状態を作り出せることにもつながるだろうしその余裕が重要だ。友好関係が個別にあるということはお互いに共通認識できる部分があり、それを意識し続ける事がいつかは両国がWIN-WINである新たな道を見つけることにつながっていくだろうとも思う



ミハイル・ゴルバチョフ -Wikipedia

1985年に共産党書記長に就任し、国内でペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を進め、外交面では冷戦を終結させ軍縮を進めるなど、世界平和に多大な貢献をした。1990年、ソ連で最初で最後となる大統領に就任し、同年にはノーベル平和賞を受賞。日本を含む西側諸国でも絶大な人気を誇り、ゴルビーの愛称で親しまれた。

  彼を支持しないロシア人の多くの意見は「スターリン・
  ブレジネフの時代は確かにひどかったが、配給でポケッ
  トにパンがいっぱいになっていた、また一見ひどくとも
  それはいわゆる檻の規律であり、決して悪いばかりとは
  いえないのである」というものである。


上述の反ゴルバチョフ後体制の意見大半は、ソビエト連邦時代に国家的に長期にわたって市民を隷属(洗脳)し続けた結果、いまだそこから脱しきれていない人々の意見のようにも見受けられる。人はパンのみで生きるにあらずとはいえ、そのたった一切れのパンをもらうためには何でも必死にするのも人間なのだ。

(体制的な)檻の中で生活する市民という状況は人間本来の自由意志の否定にすらつながると思われ、まるで家畜であり操り人形ですらあるように見受けられ健全ではない。自由意志を持って生きることは苦難の連続ではあるが同時に喜びを内包しているものだろう。与えられるまま思考停止で生きることは楽だろうが結果的に自分たちを貶めていることに気付けない。体制崩壊後の混乱続く中で市民が希望を見出せない状況では過去を振り返り追い求める気持ちが強いとは思うが、やっとスタートに立てたとも言える。

人は理想を夢見ながらいつかはそんな日が来るかもしれない、と思いながらも同時に自分の生きている間には絶対無いだろうというあきらめに心を許し背を向ける。その繰り返しが見識を狭め同時に人間として卑しいものを作り出すきっかけになるのかもしれない。そのままではやがて本当に人間そのものが崩壊してしまう。

体制崩壊を良しとして受け入れ、同時に他国を取り入れるベクトルを推し進めていけば檻の規律を歓迎するようなコメントは出なくなるかもしれない、そしてそれは「他国の友人」にして「自国には忠実で献身的な市民」を両方満たしてしまうという理想的な状態を作り出せるきっかけにすらなるのでは。そしてその価値観の逆転による有効性ははロシアのみに言えることではなく、日本を含めたアジアでもいえることではないのかと思う。

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≪逸話≫ 前田 慶次

2006.08.23 (Wed)
私が敬愛して止まない前田慶次郎利益の1代を書いた時代小説、『一夢庵風流記』には無かった話なのでメモ的に置いとこうと。

床柱を斧でひと打ち

堂森村の旧家で太郎兵衛と称する肝煎(きもいり;村長のこと)がいた。この太郎兵衛なるものが、身代も年毎に太ったので或る年古い家を新しく建て替えて見違えるばかり立派になったのでかねて懇意な人等や親戚などを招待して新宅祝をやった。

 このときに慶次郎は一番の上客として招かれて宴席に列なった。主人太郎兵衛の挨拶があり、これから盛宴に移ろうとした時に、つと座を立ち上がった慶次郎は改まって述べるよう
「此家の新宅祝を開くに当たって御家繁昌、無病息災のまじないをしてつかわす」
そして勝手から一丁の斧を持ってくるように命じた。


 何をやり出すのか分からないが兎に角命じられるままに斧を差し出した。すると慶次郎はずかずかと上段の床柱の前に進み出て、エーッと一声高く叫ぶと見る間もなく件の斧を振り上げてその床柱の真中にハッシとばかり伐りつけた。一座は只々あっけにとられて見ているばかり、新築したばかりの床柱に大きな傷跡をつけるとはいかな狂人でもめったにやる事でない。中にもこの家の主人太郎兵衛は烈火の如く顔を真っ赤にして怒り出した。

 暫くじっとして一座の様子を眺めていた慶次郎はおもむろに口を開いて云うよう
「さて主人太郎兵衛よ、又一座の人たちもよく心を静めてわしの云うことを聞くがよい、すべて世の中のことは満つれば欠けると云う事が間違いのない法則である。この家の主人も近頃大分貯め込んで家を新築したことはまことに目出度い事に相違ないが、扨て人間と云う者はその処が肝腎、何より大切のところである。これで沢山だと安心した時は既に頂点でそれから後は運が傾く一方思いもかけない災難が後から後から降りかかって来る、そしてアッとい間に身代がつぶれ一家滅亡となるのだ。太郎兵衛よ能くここの道理を考えよ、決して有頂天になるな、いまこの傷ついた床柱を朝晩眺めてわしの言葉を思い出すがよい、それこそ無病息災お家繁昌の基いである」
と懇々と説いたので主人太郎兵衛も成る程もっとも至極の御言葉と肝に銘じて忘れなかった。太郎兵衛の家は其の後永く続いたと云われる。慶次郎のいたずらにはそこに何か意味が含まれている。


前田慶次の逸話は必ずいいスパイスが効いているので病みつき。成る程もっとも至極の御言葉と肝に銘じて忘れないようにしよう。

ただ、今の時代これをやったら訴えられますのでご注意を。。


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隆 慶一郎 (1989/03/23)
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百丈野狐(やこ)

2006.08.22 (Tue)
百丈野狐 -無門関 第二則

説法の後、いつも残っている老人がいた。和尚が聞いてみると、昔住職をしていたが、ある日修行僧に、悟った人は因果の世界に落ちるかと聞かれ、因果には落ちない、と答えたらそれから五百回も野狐に生まれ変わってしまったという。

老人は改めて和尚に、悟った人は因果に落ちるか、と聞いた。和尚は因果はくらますことはない、と答え、老人は悟りを開いて辞した。

食事の後和尚は山へゆき、野狐の死骸を示し丁重に葬らせた。夜になって和尚が弟子達にこの話をすると、ある僧が、その老人はもし答を誤らなかったら何になっていたかと聞いた。和尚がもっと近くへ来い、教えてやろうというと、その僧は進み出て和尚の横面を殴った。和尚は手を叩いて笑い、ここにももう一人達磨がおったわい、と言った。

無門和尚の解説:因果に落ちないと言ったら何故野狐に堕ちたのか。因果をくらますことはない、と言ったら何故野狐を脱したのか。このことが見通せれば、この老人は五百回の野狐の生を風流に送ったことが判るであろう。


因果(原因と結果)というと一般に人間はその関係性に縛られるイメージをもつことが多いのではないかと思う。この老人も悟るということは因果から解き放たれることを想像し、(自らも指して)「因果には落ちない」と答えたのだろう。だがまさにその「落ちない」という認識ことがまだ囚われていることにほかならないだろうか。

対して百丈和尚はこの老人に対し「因果はくらますことはない」と答えた。これは人間が悟りにいたるとしても因果は常に存在し人間とかかわることを指すだろう。「くらまさない」と聞いた老人は、因果を知りそれを利用し、さらに人間はその本来持つ自由意志によりその因果すら無視することも出来ると考えるに至り、野狐を脱し悟りを開いたのだろうと解釈した。それが五百回の野狐の生を風流に送ったことにつながるのだろうと。

これは次の「和尚の横面を殴った僧」にかかってくる。和尚の話を聞くことと和尚を殴ることには一見何の因果も感じられない。その意味で僧は因果を無視したのだとも思える。だが僧の心になにかしらの原因あっての結果とも言えそうだ。つまり殴る事によって因果の広がりを表したのではないかということに同意。「和尚は手を叩いて笑い、ここにももう一人達磨がおったわい、と言った」こともこの僧が悟りの境地にあることを知ったためと思える。

ただ混乱しているのは「和尚は実はなんと言おうとしたか」。実はそのことと僧が殴ることに関係性があるのではとも推測した。
ひとつの仮定だが、「その老人はもし答を誤らなかったら何になっていたか」で「それでも老人は野狐に生まれ変わっていただろう」と和尚が答えるならば、僧が老人を哀れに思い、和尚を殴ることによって言わせないという因果をたどった行動のようにも解せる。だが今の時点ではなんとも言えない。



この「百丈野狐」の禅話は何かで知ってずっと引っかかっていました。【無門関】はこの一説法だけでも難解なのにまだ47話もあります。すべて理解するまであと何回生まれ変わればいいのでしょうか(笑)。いつか自分で解釈してみようと思っていたのですが、考えれば考えるほど分からない部分があって手をこまねいています。今後年喰ってまた別の解釈になって行くかもしれないのが面白いかもと、メモ的においてみました。皆さんならどう解釈されますか?



他の訳 百丈野狐-禅のお話 (詳細に訳したもの)
【編集】 |  16:45 |  【狩】真 善 美  | トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑

ああやっと梅雨が明け、夏が来る

2006.07.27 (Thu)
lives0726.jpg

2006/7/26 17:00 撮影
しっとりと夏を迎えるある地方の一コマ。
【編集】 |  00:16 |  【狩】真 善 美  | トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑

天地創造

2006.07.02 (Sun)
反物質

この世の質量を持つ物質はマイナスの電荷をもつ。
そしてこの世にはほとんど存在しないプラスの電荷を持つ反物質がある。

物質と反物質が触れた瞬間に両者は相殺され無になる。と同時に2つの光子(フォトン)を放つ。

これはこの世の究極の原理であり、ビッグバンの仕組みを説明できるものと考えられる。

それは神の御業か悪魔の兵器か...。
【編集】 |  22:28 |  【狩】真 善 美  | トラックバック(0) | コメント(0) | Top↑
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