ハンター紀行 百丈野狐(やこ)

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百丈野狐(やこ)

2006.08.22 (Tue)
百丈野狐 -無門関 第二則

説法の後、いつも残っている老人がいた。和尚が聞いてみると、昔住職をしていたが、ある日修行僧に、悟った人は因果の世界に落ちるかと聞かれ、因果には落ちない、と答えたらそれから五百回も野狐に生まれ変わってしまったという。

老人は改めて和尚に、悟った人は因果に落ちるか、と聞いた。和尚は因果はくらますことはない、と答え、老人は悟りを開いて辞した。

食事の後和尚は山へゆき、野狐の死骸を示し丁重に葬らせた。夜になって和尚が弟子達にこの話をすると、ある僧が、その老人はもし答を誤らなかったら何になっていたかと聞いた。和尚がもっと近くへ来い、教えてやろうというと、その僧は進み出て和尚の横面を殴った。和尚は手を叩いて笑い、ここにももう一人達磨がおったわい、と言った。

無門和尚の解説:因果に落ちないと言ったら何故野狐に堕ちたのか。因果をくらますことはない、と言ったら何故野狐を脱したのか。このことが見通せれば、この老人は五百回の野狐の生を風流に送ったことが判るであろう。


因果(原因と結果)というと一般に人間はその関係性に縛られるイメージをもつことが多いのではないかと思う。この老人も悟るということは因果から解き放たれることを想像し、(自らも指して)「因果には落ちない」と答えたのだろう。だがまさにその「落ちない」という認識ことがまだ囚われていることにほかならないだろうか。

対して百丈和尚はこの老人に対し「因果はくらますことはない」と答えた。これは人間が悟りにいたるとしても因果は常に存在し人間とかかわることを指すだろう。「くらまさない」と聞いた老人は、因果を知りそれを利用し、さらに人間はその本来持つ自由意志によりその因果すら無視することも出来ると考えるに至り、野狐を脱し悟りを開いたのだろうと解釈した。それが五百回の野狐の生を風流に送ったことにつながるのだろうと。

これは次の「和尚の横面を殴った僧」にかかってくる。和尚の話を聞くことと和尚を殴ることには一見何の因果も感じられない。その意味で僧は因果を無視したのだとも思える。だが僧の心になにかしらの原因あっての結果とも言えそうだ。つまり殴る事によって因果の広がりを表したのではないかということに同意。「和尚は手を叩いて笑い、ここにももう一人達磨がおったわい、と言った」こともこの僧が悟りの境地にあることを知ったためと思える。

ただ混乱しているのは「和尚は実はなんと言おうとしたか」。実はそのことと僧が殴ることに関係性があるのではとも推測した。
ひとつの仮定だが、「その老人はもし答を誤らなかったら何になっていたか」で「それでも老人は野狐に生まれ変わっていただろう」と和尚が答えるならば、僧が老人を哀れに思い、和尚を殴ることによって言わせないという因果をたどった行動のようにも解せる。だが今の時点ではなんとも言えない。



この「百丈野狐」の禅話は何かで知ってずっと引っかかっていました。【無門関】はこの一説法だけでも難解なのにまだ47話もあります。すべて理解するまであと何回生まれ変わればいいのでしょうか(笑)。いつか自分で解釈してみようと思っていたのですが、考えれば考えるほど分からない部分があって手をこまねいています。今後年喰ってまた別の解釈になって行くかもしれないのが面白いかもと、メモ的においてみました。皆さんならどう解釈されますか?



他の訳 百丈野狐-禅のお話 (詳細に訳したもの)
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